LOGIN――私は大丈夫。しばらく一人にして。
送信には時間がかかった。 既読はつかなかった。 その頃、司は会場の救護室前で、未央の行き先を聞いていた。「九条側で保護したとしか伺っておりません」 会場スタッフの返事は、丁寧だった。「保護って、どこへ」「個人情報に関わりますので、こちらからは」「俺は婚約者です」 言った瞬間、自分の声が虚しく響いた。 婚約者。 その言葉は、もうどれほどの重さを持っているのだろう。 さっき、未央は自分に来ないでと言った。 その前に、自分は未央のことを疑っていた。 さらにその前、三年前には、栞の電話に出なかった。 司は手の中のスマートフォンを強く握った。「桐生様」 背後から、相良さんの声がした。 司は振り返った。 相良さんは責める顔をしていなかった。むしろ、いつもと同じ、礼儀正しい距離のまま立っている。「未央様の所在について、――私は大丈夫。しばらく一人にして。 送信には時間がかかった。 既読はつかなかった。 その頃、司は会場の救護室前で、未央の行き先を聞いていた。「九条側で保護したとしか伺っておりません」 会場スタッフの返事は、丁寧だった。「保護って、どこへ」「個人情報に関わりますので、こちらからは」「俺は婚約者です」 言った瞬間、自分の声が虚しく響いた。 婚約者。 その言葉は、もうどれほどの重さを持っているのだろう。 さっき、未央は自分に来ないでと言った。 その前に、自分は未央のことを疑っていた。 さらにその前、三年前には、栞の電話に出なかった。 司は手の中のスマートフォンを強く握った。「桐生様」 背後から、相良さんの声がした。 司は振り返った。 相良さんは責める顔をしていなかった。むしろ、いつもと同じ、礼儀正しい距離のまま立っている。「未央様の所在について、こちらも正式な情報は受けておりません。九条側へ照会は入れますが、即時回答があるとは限りません」「栞は」 口から出てしまってから、司は後悔した。 なぜ、ここで栞の名を出すのか。 相良さんは一度だけ司の顔を見た。「朝霧様は、会場側の事情確認に応じておられます」「そう、ですか」「桐生様」 呼び止められ、司は顔を上げた。「今、誰かを助けたいのでしたら、見てないことを見たと言わないことです」 静かな声だった。 司は返す言葉を失った。 三年前、彼は見ていなかった。 なのに、見ていないことを、見た人たちの側に立って信じた。「……分かってます」「そうですね」 相良さんはそれ以上言わなかった。 相良さんが去ったあとも、その言葉が残った。 司はスマートフォンを握り直した。 九条家の代表番号へ電話をかける。受付は丁寧だったが、未央という名前を出した途端、確
流れていく街の明かりが、窓のフィルム越しに鈍く滲む。さっきまでいた会場から離れるほど、胸の中の怒りが少しずつ形を変えた。 車内は静かで、タイヤが路面を拾う音だけが続いていた。 怒りではない。 焦りだった。 栞は声を荒げることさえしなかった。 涙を見せることもなかった。 未央を責める言葉ひとつ口にしなかった。 ただ、記録を求めた。 あれでは、未央の方がひどく幼く見える。 倒れたのは自分なのに、なぜそうなるのか分からない。 スマートフォンを取り出すと、秘書が声をひそめた。「申し訳ありません。到着までは外部との通話をお控えください」「どうして」 その問いは、誰にも拾われないまま落ちた。未央は視線を下げた。「混乱を避けるためです」 未央は男を睨んだ。「誰から言われたの?」「九条康生の指示です」 康生。 その名を聞いただけで、張りつめていた肩から力が抜けた。 あの人なら、どうにかしてくれる。会場の映像だって、きっと何とかする。栞がどれほど手順を守っても、見る人が見なければ、映像はただのファイルだ。 そう思いたかった。 車は都心から少し離れた、静かな通りに入った。 到着したのは、ホテルではなかった。古い洋館を改装した会員制の滞在施設のように見える建物だった。看板はない。門柱には、小さく九条関連の管理会社名だけが刻まれている。 中へ入る時、未央は名前を書かされた。 如月未央。 その横に、利用目的として「休養・安全確保」と印字されている。「これ、何ですか」「滞在記録です」「署名しないと入れないの?」「手続き上、必要です」 男の声は、こちらの苛立ちを受け流すほど丁寧だった。 その丁寧さが、かえって腹立たしかった。 未央はペンを握った。手元が少し震えている。署名欄の上には、外部連絡の一時制限、施設内での面会は管理者承認制、情報漏洩防止のため滞在場所を第三者に伝えないこと、という文言が並んで
九条家の秘書が「保護」と言った瞬間、私は未央の方を見た。 救護室の消毒液の匂いが、廊下まで残っていた。 医務室の扉の奥で、彼女は肩に薄い湿布を貼られていた。泣いた後の顔で、けれど目だけはまだこちらを探している。 私は近づかなかった。「九条側に渡していいんですか」 思わず高瀬さんに聞いた。「本人が同意すれば、止められません」「同意してるように見えますか」 高瀬さんは答えるまでに間があった。 その沈黙で、答えは分かった。 律が横で静かに言う。「康生は、逃げ場を差し出す形が上手い」「逃げ場」「本人が選んだと思える場所ほど、あとで出にくい」 その言い方に、さっきの「安全確保」の書類を思い出した。 未央を助けたい、とは思わない。 あの人は、私を何度も壊そうとした。三年前も、今日も。 目の前で別の檻に入れられていくのを見て、胸がすっと軽くなることはなかった。「私は」 言いかけて、やめた。 私は、何を言おうとしたのだろう。 止めたい。違う。助けたい。違う。ざまあみろと言いたい。たぶん、それも違う。「記録だけ、残してください」 結局、そう言った。「未央さんが九条側へ移動した時刻、同行者、本人確認、同意の有無。分かる範囲で」「分かる範囲から当たります」 高瀬さんは頷いた。 高瀬さんはすぐにメモへ落とした。◇ 未央が九条家の車に乗った時、まだ膝は痛んでいなかった。 肩も、本当は少し擦っただけだった。 救護室で冷却材を当てられ、念のため医療機関を受診するかと聞かれたが、彼女は首を横に振った。病院へ行けば、診断書が残る。診断書が残れば、痛みの場所も、程度も、全部記録になる。 今の未央には、それが少し怖かった。「こちらへ」 九条家の秘書だという男が、後部座席のドアを開けた。 車内は広く、革の匂いがした。窓には薄いフィルムが貼られていて、外から中は見えにくい。未央は
映像が残っていた安堵と、残っていなければまた疑われたかもしれない悔しさが、同時に押し寄せた。 敷物の上では、車椅子の音さえほとんど吸われていた。「朝霧さん」 律の声がした。 私は画面から目を離さずに答えた。「見ています」「目は逸らしていません」「ちゃんと、見ています」 自分に言っているのかもしれなかった。 映像確認が終わると、会場側の法務担当がモニターから目を離して言った。「現時点の映像上、朝霧様による接触は確認できません。正式な事故報告書では、第三者による強制的接触なし、と記載する方向で整理します」 第三者による強制的接触なし。「医務室の記録は」 高瀬さんが確認した。「救護記録として保存します。診断行為じゃありませんが、本人申告の痛みの部位、処置内容、搬送の希望有無は残ります」 会場側の法務担当が答える。「未央様は外部医療機関への搬送を希望されませんでした。ただし、後日症状を訴えられた場合に備え、救護室での初期対応記録は封緘します」「ありがとうございます」 私が頭を下げると、法務担当は視線を落とした。 この人も、面倒な場に巻き込まれているだけだ。 でも、巻き込まれた人が手順を守ってくれたことで、私は三年前と同じ底へ落ちずに済んだ。「朝霧様」 高瀬さんが、今度は私へ向き直った。「この件について、こちらからSNS等へ発信することは避けます。会場側の公式報告、必要に応じた法的照会、関係者への通知に留めます」「その形でお願いします」「未央様側から虚偽の発信があった場合は、反論可能な形で準備します」 私は頷いて手帳を開いた。会場側の法務担当も、手元の書類へ目を落とした。 法務担当が保全番号を読み上げた。高瀬さんが一度だけ復唱する。 私は手帳へ番号を書いた。最後の数字でペン先が引っかかり、紙に小さな穴が開いた。「すみません」「急がなくて大丈夫ですよ」 法務担当が一瞬だけ笑い、すぐ仕事の顔へ戻った。
十分ほどして、高瀬さんが入ってきた。 換気口の低い音だけが、窓のない部屋に残っていた。 顔はいつもと同じ冷静さだったが、目元だけが少し硬い。「会場側の初期確認が出ました」 高瀬さんはテーブルに資料を置かず、まず口頭で告げた。「閲覧は別室で、関係者と法務担当の立ち会いのもと行います。映像のコピーは現時点では渡されません。保全番号だけ先に発行されました」 保全番号を聞き取り、私は手元のメモに書いた。「お願いします」 私は頷いた。 今は、こちらの手続きが済むのを待つしかない。 今ここで動画を奪って拡散すれば、未央と同じ土俵になる。 やがて、会場側の法務担当と警備責任者が入ってきた。 大型モニターではなく、確認用のノート端末が一台だけ置かれる。録画ファイルの再生前に、閲覧者名、目的、時刻が記録された。 画面の中には、階段の全景が映っていた。 私が立っている。 未央が近づく。 袖を掴もうとする。 私が両手を上げる。 触れていない。 未央が、一歩、自分で横へずれる。 足元を見ていない。 手すりに肩を当て、膝をつくように崩れる。 大きく転げ落ちてはいなかった。 それでも、彼女は床に座り込み、すぐにこちらを見る。 画面の中の私は、動いていなかった。 警備責任者は、もう一つの角度の映像も開いた。 階段の横ではなく、ロビーの天井側から撮ったものだった。人の頭で一部は隠れている。それでも、私と未央の距離は分かる。 私の足は、最後まで床の同じ位置にあった。 未央が袖に手を伸ばし、失敗し、自分で一歩ずれている。 未央の肩が手すりに触れた瞬間、彼女の顔が画面に映った。 痛みではない。 驚きでもない。 見られているかを確かめる顔だった。 私は無意識に、紙コップの縁を押さえた。 水面が小さく揺れる。「……止めてください」 声が出た。
見たものと、見ていないものを分けることだ。 階段脇の花器に活けられた葉が、空調でわずかに揺れた。「……分かった」 司は、低く言った。 その声には傷ついた響きがあった。けれど、私はそこまで抱えるつもりはなかった。 救護スタッフが膝をつき、未央に触れる前に名乗った。痛む場所、転倒時の意識、頭部を打ったかどうか。確認は淡々としている。 未央は「肩が痛い」と言った。 膝ではない。 さっき押さえていた場所とも違う。 救護スタッフは一度だけ未央の顔を見た。「念のため、医務室で確認します。歩けますか」「……怖い」 未央は、また私を見た。「栞お姉ちゃんが、近くにいるから」 昔なら、そこで周囲が私から距離を取っただろう。 けれど今回は、会場責任者らしき女性が一歩前へ出た。胸に財団の運営スタッフを示す名札がある。「では、朝霧様にはこちらの職員と一緒に、別室でお待ちいただきます。未央様は救護班と医務室へ。双方の接触を避けます」 未央の顔が曇った。会場責任者は、私と未央を別々の方向へ案内した。「公式映像の保全については」 私が聞くと、女性はすぐに頷いた。「会場側で対応します。事故報告に必要な範囲で確認し、個人情報に関わる部分は法務担当を通します。榊様側の担当者にも、手続きについて共有します」「お願いします。映像は残しておいてください」 頭を下げた。 その時、未央が小さく笑った。 泣いた顔のまま、唇の端だけが動いた。「手慣れてるのね」 聞こえたのは、たぶん私と律だけだった。「そうですね」 私は答えた。「三年前に、何もしなかったので」 未央の目が細くなった。 その先は言わなかった。 救護スタッフに支えられ、未央が医務室へ向かう。司が一歩ついていこうとして、未央に睨まれた。「来ないで」「未央」「あなたは、また栞を見てたじ
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし